電車やバスの中で幼い子どもが、じっとしていられなくて動きまわり、おとなしくさせようと苦心している親を見かけたりします。これは教育されるべき子どもの性質として理解されます。
つまり教育をしない、足りないと子どもは動きまわり、騒ぐものだという理解が私たちにあるのです。この観察はきっと、とても正しいものなのです。
小学校に上がっても、教師はほんのしばらくの時間でも子どもたちをじっとさせるために大変な苦労をすると聞きます。小学校の教師は大学での勉強時間の多くを、子どものコントロール技術の習得ために必要とするようです。
休日に遊園地などに連れて行くと、まるで中にゼンマイが入っているかのように動きまわり、そして突然、動かなくなり寝てしまったりしますよね。子どもは動くのです。
教育によって子どもたちは大人しくなるのでしょうか。決してそういえないことは明らかでしょう。子どもたちを大人しくさせることは極めて困難な作業です。
それに対して、大人に対して子どものように動きまわることは同じように苦行になりがちだからです。子どもと一緒に動きまわることは大変に体力を消耗します。ほとんど不可能です。
さらに年齢を重ねていくと、私たちも寝たきりになってしまう危険性があります。一度寝たきりになってしまうと、寝返りすらできなくなるそうです。寝返りができなくなると、3日ぐらいで床ずれが始まります。
動かないことが身体そのものの死を早めているというと言い過ぎになるでしょうか。確かに死んでしまうと動きません。逆に言えば動かなければ死んでいるのです。
このように考えると、動くことが生命の本質だとなります。私たちは動こうとして立ち上がり、動こうとして行動範囲を広げ、動こうとして身体を作り上げてきたはずなのです。
だからといって、動けることが生命のすべてではありません。動ける身体をしていながら、どこにも病的な部分はないにも関わらず、動こうとしない人も困りものです。
動こうとしないという精神状態を身体の状態から切り離して考えると無理が生じます。むしろ動こうとしない意思が不健全な生命状態だといえます。
生命は動くのであって、動けるのではありません。生命はそれぞれ実態は異なりますが、動いていると観察できます。植物は私たちには把握できないほどゆっくりと、野生動物は素早く、私たちの目に止まらない動きをします。
それぞれが動きます。ただ違うのは動くスピードだといえます。つまり生命にはそれぞれに固有の時間があって、その時間の流れの中で動いているのだと考えられます。
このように観察して解釈できる生命がどのように世界を成り立たせているのかについて、古代から東洋思想は陰陽で説明しており、東洋医学を理解する基本概念になっています。
すべて始まりは「混元」、あるいは「玄」と呼ばれる状態から始まります。西洋ではカオスといわれる状態から、神の力で秩序を得るのがその流れです。
混元は密度を上げていき、極限まで密度が上がると2つに分かれると考えます。これを「陰陽」と呼んだり、「太極」と呼んだりするわけです。
陰と陽に分かれた状態ですが、陰陽のそれぞれの中に混元として名指せる状態があり、また陰の中に陽の始まりを持ち、陽の中にも陰の始まりを抱え込んでいるのが特徴的です。
陰は陽を求め、陽は陰を求め、互いが対極を求め合うことで、陰陽は運動を始めます。従って陰陽はお互いに区別しながら、お互いを引き合う引力を持っていることになります。
その後、陰陽は「三才」という状態を経て「四象」になり、「五行」の循環を始めて世界を維持するようになるのです。