正経十二経の陽経に分類された要素が意味することを理解する

分類は知識のベースです。私たちが物事を理解するとき、既に持ち合わせている知識の分類に従って、それぞれの類型として理解するメカニズムになっています。

ところが、分類は一筋縄では上手くいきません。分類学という専門分野があり、議論がいつまでも終わらないことでも分かると思います。分類はルールが一定しないのです。

ある時、分類のルールが変化するとそれまでの知識はまったく意味を成さなくなるという事件が起こります。しかし、時として分類のルールが適用できない事態と向き合うことになるのです。

西洋の学問体系はこのような問題を内在しています。絶えず学問の分類は揺れ動き、多用な学問領域に分類されてしまうようになり、議論が錯綜する結果を招くのです。

新聞のコラムを自分で分類してみれば、この現象は簡単に経験できるでしょう。社説を自分で分類すると、社会なのか政治なのか区別が曖昧になります。曖昧な知識は早晩忘れ去られるか、混乱を招きます。

一方の東洋医学を含む思想も同じように分類するためのシステムを持っています。東洋思想もやはり人間の知性による営みなので、分類という行為を避けて通れないのです。

陰陽はすべてのモノに内在するので、これを用いて分類することになります。結果として東洋思想はすべての分類の基準は陰陽に従います。そして身体の働きを理解するためにも、メカニズムを陰陽によって分類しています。

身体の働きは目に見えません。単に食べる行為も口に入れた以降、まったく目に見えない働きに頼るのです。食べ物が陽から陰に取り込まれると考えるのです。

そしてその後は視覚以外の知覚と想像力に頼って働きを理解する工夫が必要になってきます。そのような取り組みの結果として、感覚によって探り当てることができる部分とそうではない部分とに分けられます。

感覚できる身体内部の働きを陽に分類しました。これを陽のグループとして系統だてて説明するのが陽経6経です。そして陽には必ず陰があるはずですから、こちらも6経考えてつじつまを合わせます。

このようにして陰陽12経を設定しました。つまり口から胃、小腸、大腸、また膀胱、胆、三焦といった具合に陽経を分類し、それぞれに対応する陰経を考えました。

これらの陽経はだいたい感覚することができるはずです。お腹が一杯になったとき、胃が感じれます。その後、別のところが充実する感覚があり、小腸とします。トイレに行こうと思うとき感覚しているのが大腸ですね。

その他2つのうち胆は、特殊な場合に感覚できます。絶食して胎内に消化しているものがすべてなくなった時に、初めて感覚できます。身体が胆汁を分泌しているからです。

これはまた、まだ何も食べていない赤ん坊の便を観察しても同じ現象が理解できます。チベットに伝わる古い文献にもこの胆汁らしきものについて解説が加えられており、昔の人は常識的に認識していたようです。

そして東洋医学の専門家でも説明に困って、放棄してしまうこともある三焦が残ります。これは食欲と満腹感と便通がアンバランスになることで感覚します。つまりこれらの働きのバランスをとっている働きがないと説明できないのです。

このことは生産工場での管理システムに似ています。各部品がどれだけあるのか、また製品がどれくらいあるのかを製造工程で管理するのは非効率です。生産管理は通常、各部署の在庫を管理して行います。

つまり生産工程がどのように動いているのかを、各部署の在庫状況を把握することで、理解して管理するようになっているのです。陽経を在庫と考えると、生産管理のやり方に非常に似ています。