とりあえずここから始めよう!陰経のスタート−肺経で活性化する

今回は東洋医学の知識を応用した実践的なテクニックを紹介しましょう。さまざまな方法がありますが、それらの中でもっとも簡単で手軽なものをご紹介します。

正経12経の中に肺経という経絡があります。もちろん肺蔵を中心にして働く呼吸系の経絡です。病は気からという言い習わしもあるように肺経は経絡全体に関わっています。

具体的な方法は次の通りです。まず緩やかに身体をまっすぐに立てます。身体をまっすぐに立てるというのは、腰骨と両肩の位置がまっすぐになるようにすれば、だいたいできています。

緩やかになるように意識しましょう。緊張している場所がないか、頭から足の裏まで順番にチェックします。緊張していると感じる場所は必ず余分な緊張を強いられています。

数日間繰り返すことで慣れてきて、緊張を解すようにイメージすることで緊張が緩むようになってきます。ここまでが全身に気を巡らせるための準備段階になります。

気になる人もいますが、座っていても、横になっていても構いません。身体がまっすぐに伸びやかになっていれば、当初の目標地点にたどり着いた状態です。

両手の掌を腰の少し上側、おへその真裏の両側に当てます。自分の掌である必要はありませんから、誰かに手伝ってもらっても良いかもしれません。

掌が当たっている部位で、つまり身体側で、掌を感じるように意識を集めます。一種の気功に分類できますが、掌から気のエネルギーが照射されてなどとは言いませんから、安心してください。

掌が当たっている部位に意識を集めて、掌の当たっている圧感や暖かさを感じることが大切なのです。古伝の中国気功の教えるところによれば、意識の集まっている部位に気が集まるのです。

自分の気によって自分のケアをすることが気功の基本になります。生きている限り、自分の中には気があります。そのことは生理学的にも説明されることなのです。

骨折したとき、骨折した部位の造血作用が亢進する現象がありますが、痛みがまったくない場合、造血作用は抑制されてしまいます。通常はたとえ痛み止めを服用していても、ずっとむずむずした感じが残るはずなのです。

このムズムズ感は痛みの小さいものですから、この痛みによって意識が自然と骨折している部位に集まります。その意識に導かれて気が部位に集まり、造血作用が亢進すると考えるのです。

また、ある箇所に力を込めるとそこに血液が集まり、酸素の代謝が増進することがある種の装置によって計測できます。これも同様に考えられます。

意識しなければ、一定の場所に力を作ることができません。つまり意識して、力を入れようとすることで、そこに気が集まり、酸素代謝が増加するのだと考えるわけです。

意識によって、造血作用や酸素代謝が増える働きが誰にも備わっているという考え方が成立しています。原初的な気功はこのような考え方に成り立っているもので、単なる気休めではありません。

そして緩んだ体位(立位、座位、臥位のいずれか)を作り、手を腰に当てたまま、ゆっくり息を吐き出し、そしてゆっくりと息を吸い込みます。

しばらくすると掌の当たっている部位が暖かく感じられるようになるはずです。こうなればしめたもの。身体の巡りの要である水行が活性化しているのです。

この感覚が出てきたら、緩やかに小さい動きが必要です。ちょうどパイプに何かが詰まっている時のように、中の詰まったものを揺り動かすようなふうに身体を揺することが効果的なのです。是非お試しください。

巡りがつけば楽になる!五行で身体の働きが伝達されて循環する

病院に出かけて病気の診断を受けるようになるまえに、何だか調子がおかしいなという状態を経験することが多いと思います。できればこの段階でケアできれば、病院のお世話になる面倒を回避できる場合も多いのではないでしょうか。

人によっては高熱を出したまま職場に出てきて、責任をまっとうするという気概を持っている人もいます。そして最終的に職場から救急車で病院に直行する場合もあるようです。

職務に忠実であるという反面、自分の体調管理が不十分な人だという評価を免れないでしょう。最終的な段階に突入する前にケアできていれば、被害はもっと抑えることができたはずです。

大切なのは出来る限り初期の段階で変調に気づいて、ケアを加える判断ではないでしょうか。そのためには普段から自分の体調を観察している慎重な態度が必要です。

東洋医学の世界では、体調不良として大きく2つに注目しています。ひとつは「だるさ」、もう一つは「痛み」です。どちらも次の段階に進むともはや病気になってしまいます。

でも、どちらの感覚があっても病気だと判断しないでしょうし、だるいからと休んでいると怠け者と評価されません。痛みも我慢できるかできないかで判断しているようです。

この2つに早く気づいていれば、自分で対処できる場合が少なくないでしょう。そのために必要なのは東洋医学的な身体理解と痛みとの関係です。

人間の身体もひとつの装置のように機能を分担して動いています。この機能を分類して、よく知られた「五行」という言葉で表現しています。つまり「木火土金水」というシンボルです。

身体を作っているフレームとして木行があって、陰陽に分かれて、肝と胆としています。これは生命の入れ物である身体そのものを造り、維持するための枠組みです。

そして外部から燃料を取り込んで、内部に貯めこむ機能として土行があります。これも陰陽に分けて腎と胃になっています。これによって外部から燃料を内部に受け渡ししています。

そして肝心のエネルギーを発生させるエンジンの役割を果たす火行があります。火行の陰陽は心と小腸ということになっており、これに関しては西洋医学も似たような発想をしているように思えます。

外界と体内との接触を管理してインターフェースのような機能を果たす金行が意外と重要な機能で、全体の機能を潤滑する働きを担っているのが肺と大腸の陰陽です。

それぞれの機能を循環する巡りをつけているのが水行である陰陽、腎と膀胱という区分なのです。これらはいずれも内臓の意味ではない点に注意が必要です。

さて、これらの概念を使って先ほど挙げた2つの症状を捉えることができます。だるさは巡らせる力が弱っているからだといえます。巡らせる元の力はエンジンである火にあります。

ですから火が弱っている原因を考えてケアします。そもそも疲労が蓄積しているからかも知れません。エネルギー消費に対する供給が間に合っていないことが原因しているかも知れません。

火が弱る原因は人それぞれです。人によってもともと備わっている活動力が異なっているからです。いずれにしても、一旦活動量を十分に減らしてから、少しずつ活動量を増やしていく手順によって改善されるはずです。

もう一つの痛みについては、多分エネルギー不足が問題ではなく、巡りがついていないことが問題になるはずです。どこかが詰まっているのに、そこに頑張って圧力を加えてしまうと痛みとして感じられます。典型的なものが肩こりですね。

じっとしていても改善されません。身体を休める必要がありますが、じっとしているのではなく、揺らすなど、僅かに身体を動かすことが大変効果的です。

分けて考えることで基礎付ける四象というフレームワークを使う

「龍」「虎」「朱雀」「玄武」ってお聞きになった記憶がありますか?最近のスピリチャルのブームが影響して、専門店なんかがこれらの文字を刻みこんだ玉などを販売したりしています。

そのようなショップではそれぞれをお守りとして販売しているようです。しかし、もともとはお守りのような意味はなく、東西南北に割り当てられたキャラクターだったのです。

陰陽にわかれた天地は三才を経て、「少陽」「老陽」「少陰」「老陽」という状態を巡るようになります。この4つを「四象」と呼んでいますが、直感的に太陽の様子に当てはめて理解したようです。

まだ太陽が十分に強くない少陽がいずれ日差しに地を焦がすほど強くなり、老陽に至ります。老陽が極まると、老陽の中に残っていた陰はまだ少ないながらも陰が大きくなり始め、小陰になります。そして陰が極まって、日差しが極めて限られる老陰に至ります。

このように物事の変化をいくつかに分けて考える営みは、人間の知性にとって本質的な意味を持っています。いわゆる分析という知性の役割りです。個人がひとりひとり勝手なやり方で分析すると協同で知恵を出し合えなくなります。

そこで、方角について四象を用いて共通理解が成り立ちました。人間はこれで場所の意味を理解しました。そもそも人間は方向で場所を理解します。最も身近なものは前後左右です。

ただ自分の前後左右が隣の人の前後左右とは違ってしまうと、コミュニケーションに問題が生じます。そこで東西南北という方向を利用します。東西南北というのは人間の方向ではありません。

人間そのものではなく人間が共通して持っている地盤に方向を決めたことになります。これで四象と東西南北の二本立てで方角を表現するようになります。

東西南北は単純に方角に対してつけた名前ですが、四象は巡りのニュアンスを色濃く残しています。そこで巡りを説明する時は四象を用いる場合が多いようです。

それぞれにキャラクターを設定している理由は、それぞれのキャラクターが四象のイメージを良く表しているからでしょう。東を受け持つ青龍は若い力のイメージです。

朱雀は熱い熱のイメージで夏を意味する南を担当しています。そして巡りが進んで、喜びの時節が訪れる白虎に担当を移動し、動きが遅い玄武は、天で頑なに位置を守る北極星の方向を指し示しています。

このようにイメージすることで、洛陽の時代の感覚をそれぞれの方向に割当て方角を確かで共通した感覚を作ったことのです。人間の知性の働き方は、時代が変わっても大して変化しないことがわかります。

そのようにいえるのも、4つに分けて物事を把握して考えようという方法は現代のビジネスでも頻繁に紹介される手法と全く同じだからです。

また、それぞれの分類にキャラクターを用意して印象的な理解を助けようとする試みも現代にそのまま通用します。各地のゆるキャラなどはその良い例でしょう。

それでは、東洋思想の考え方と西洋から入ってきた考え方とはまったく同じになっても良さそうですが、そうなっていません。それは一体どうしてでしょうか?東洋思想が時代遅れだということでしょうか。

確かに、キャラクターの名前や方角を指す用語は、古色蒼然として感じられます。青龍などと言われても、にわかにイメージすることが難しいかもしれません。

それに特に都会では太陽のある方角を意識することも少なくなって来たのかも知れませんよね。ビルの狭間を行き巡る道に太陽の方向などわからなくなってしまいます。そして道に迷うのです。

東洋思想の枠組みの中には三才の考え方が入り込んでいます。言い換えると思想の中心に人間への眼差しがあるのです。

理屈だけじゃあダメだ!東洋思想で三才を教えているから実証的

生命の活動を支える正経12経の中で陰経が主なる活動を担当していると説明しました。だからといって、陰経6経のひとつひとつについて事細かに理解する必要はありません。

ここでは、陰経6経について、それぞれの働きの対象で大きく3つに分けて考えてみましょう。で、その3つとは「気」「血」そして「バランス」です。

生命の働きを説明する際、東洋医学で頻繁に用いられる用語は「気」「血」そして「水」というのが定番ですが、ここではもっと古典的な概念に戻って簡単な理解を提案します。

気は東洋思想の根本をなしている重要な概念ですので、別に分けて少し詳しく説明したいと思いますので、「そもそも東洋思想でいう気とは」をご参照ください。

それで、もう一つの血とは気以外の目に見れる身体の物質構造のすべてを指します。身体の表面の皮膚も血の変化したものだと理解します。血液が流れていますが、これは液体状の血という意味ですね。

残るのはバランスです。現代的な言葉で言えば、ホメオスタシスという用語がそれに当たるかも知れません。生物は一定の形状を保持しようとする働きがあります。病気が治癒するのも根本的にはこの働きが関与しています。この点、東洋と西洋は一致しているのですね。

それでは、気に関係する経絡の名前を挙げてみます。「肺」、「脾」、そして「腎」の3つということになります。これらの名前が内蔵の名前に用いられていますが、もちろん意味はまったく異なります。

肺経は胸に収まっている肺臓を中心にして働きますが、単純な呼吸の問題ではありません。肺経は息として取り込んだ気を全身に巡らせて、全身の呼吸までを範囲にして働きます。今流行りのミトコンドリアの活性も肺経の働きとして捉えられてきたことです。

そして脾は簡単に言えば、消化の働きのことです。これは食べたものを分解し、気と血の元を取り出します。そしてそれぞれを次の工程に送り出す役割をもっています。

なので脾が弱ってくると、食欲が失くなったり、消化不良を起こしたりします。脾は食物から後天の気を取り込むのが仕事ですから、これが首尾よく機能しないと先天の気を消耗することになってさまざまな症状を発するのです。

そして気の働きで全身を支えているのが腎です。気を血の中に取り込んで全身に配送する役割をしています。その際に血の中の汚れを気に交換する仕事も受け持つことになります。

気疲れなどということがありますが、このような症状が出てくるのは腎に気が足りなくなるか、腎の能力を超えた処理をさせているかということによります。

次に血の陰経を挙げましょう。血の陰蔵は「肝」と「心包」ということになり2つあります。これらは物としての身体を支える働きを担っています。

肝は取り込まれた血を蓄える働きと説明されます。脾によって分解された血を蓄え、必要に応じて全身の血を供給するための貯蔵庫として働いています。

実際、肝の中心は肝臓ですが、ここでグリコーゲンが蓄えられ、血中に分泌し全身のエネルギーを送り出します。東洋医学の場合、全身の細胞の隅々まで肝の機能があることを前提にします。

細胞ごとに内部にエネルギーを留保していますが、これも東洋医学では肝の機能として理解します。細胞内のエネルギーを代謝させるカギは酸素の供給ですから、呼吸を工夫するとダイエットに効果が上がるのは当然ということになります。

肝のために心包が働いています。つまりポンプ作用で全身に血液を巡らせているのです。通念としては心臓がその役割を担っていると限定しがちですが、心包には血管も含まれます。このように陰経が生命の全体を支えています。

手入れのターゲット−正経十二経の陰経が身体の働きを支えている

生命の活動を支える正経12経の中で陰経が主なる活動を担当していると説明しました。だからといって、陰経6経のひとつひとつについて事細かに理解する必要はありません。

ここでは、陰経6経について、それぞれの働きの対象で大きく3つに分けて考えてみましょう。で、その3つとは「気」「血」そして「バランス」です。

生命の働きを説明する際、東洋医学で頻繁に用いられる用語は「気」「血」そして「水」というのが定番ですが、ここではもっと古典的な概念に戻って簡単な理解を提案します。

気は東洋思想の根本をなしている重要な概念ですので、別に分けて少し詳しく説明したいと思いますので、「そもそも東洋思想でいう気とは」をご参照ください。

それで、もう一つの血とは気以外の目に見れる身体の物質構造のすべてを指します。身体の表面の皮膚も血の変化したものだと理解します。血液が流れていますが、これは液体状の血という意味ですね。

残るのはバランスです。現代的な言葉で言えば、ホメオスタシスという用語がそれに当たるかも知れません。生物は一定の形状を保持しようとする働きがあります。病気が治癒するのも根本的にはこの働きが関与しています。この点、東洋と西洋は一致しているのですね。

それでは、気に関係する経絡の名前を挙げてみます。「肺」、「脾」、そして「腎」の3つということになります。これらの名前が内蔵の名前に用いられていますが、もちろん意味はまったく異なります。

肺経は胸に収まっている肺臓を中心にして働きますが、単純な呼吸の問題ではありません。肺経は息として取り込んだ気を全身に巡らせて、全身の呼吸までを範囲にして働きます。今流行りのミトコンドリアの活性も肺経の働きとして捉えられてきたことです。

そして脾は簡単に言えば、消化の働きのことです。これは食べたものを分解し、気と血の元を取り出します。そしてそれぞれを次の工程に送り出す役割をもっています。

なので脾が弱ってくると、食欲が失くなったり、消化不良を起こしたりします。脾は食物から後天の気を取り込むのが仕事ですから、これが首尾よく機能しないと先天の気を消耗することになってさまざまな症状を発するのです。

そして気の働きで全身を支えているのが腎です。気を血の中に取り込んで全身に配送する役割をしています。その際に血の中の汚れを気に交換する仕事も受け持つことになります。

気疲れなどということがありますが、このような症状が出てくるのは腎に気が足りなくなるか、腎の能力を超えた処理をさせているかということによります。

次に血の陰経を挙げましょう。血の陰蔵は「肝」と「心包」ということになり2つあります。これらは物としての身体を支える働きを担っています。

肝は取り込まれた血を蓄える働きと説明されます。脾によって分解された血を蓄え、必要に応じて全身の血を供給するための貯蔵庫として働いています。

実際、肝の中心は肝臓ですが、ここでグリコーゲンが蓄えられ、血中に分泌し全身のエネルギーを送り出します。東洋医学の場合、全身の細胞の隅々まで肝の機能があることを前提にします。

細胞ごとに内部にエネルギーを留保していますが、これも東洋医学では肝の機能として理解します。細胞内のエネルギーを代謝させるカギは酸素の供給ですから、呼吸を工夫するとダイエットに効果が上がるのは当然ということになります。

肝のために心包が働いています。つまりポンプ作用で全身に血液を巡らせているのです。通念としては心臓がその役割を担っていると限定しがちですが、心包には血管も含まれます。このように陰経が生命の全体を支えています。

正経十二経の陽経に分類された要素が意味することを理解する

分類は知識のベースです。私たちが物事を理解するとき、既に持ち合わせている知識の分類に従って、それぞれの類型として理解するメカニズムになっています。

ところが、分類は一筋縄では上手くいきません。分類学という専門分野があり、議論がいつまでも終わらないことでも分かると思います。分類はルールが一定しないのです。

ある時、分類のルールが変化するとそれまでの知識はまったく意味を成さなくなるという事件が起こります。しかし、時として分類のルールが適用できない事態と向き合うことになるのです。

西洋の学問体系はこのような問題を内在しています。絶えず学問の分類は揺れ動き、多用な学問領域に分類されてしまうようになり、議論が錯綜する結果を招くのです。

新聞のコラムを自分で分類してみれば、この現象は簡単に経験できるでしょう。社説を自分で分類すると、社会なのか政治なのか区別が曖昧になります。曖昧な知識は早晩忘れ去られるか、混乱を招きます。

一方の東洋医学を含む思想も同じように分類するためのシステムを持っています。東洋思想もやはり人間の知性による営みなので、分類という行為を避けて通れないのです。

陰陽はすべてのモノに内在するので、これを用いて分類することになります。結果として東洋思想はすべての分類の基準は陰陽に従います。そして身体の働きを理解するためにも、メカニズムを陰陽によって分類しています。

身体の働きは目に見えません。単に食べる行為も口に入れた以降、まったく目に見えない働きに頼るのです。食べ物が陽から陰に取り込まれると考えるのです。

そしてその後は視覚以外の知覚と想像力に頼って働きを理解する工夫が必要になってきます。そのような取り組みの結果として、感覚によって探り当てることができる部分とそうではない部分とに分けられます。

感覚できる身体内部の働きを陽に分類しました。これを陽のグループとして系統だてて説明するのが陽経6経です。そして陽には必ず陰があるはずですから、こちらも6経考えてつじつまを合わせます。

このようにして陰陽12経を設定しました。つまり口から胃、小腸、大腸、また膀胱、胆、三焦といった具合に陽経を分類し、それぞれに対応する陰経を考えました。

これらの陽経はだいたい感覚することができるはずです。お腹が一杯になったとき、胃が感じれます。その後、別のところが充実する感覚があり、小腸とします。トイレに行こうと思うとき感覚しているのが大腸ですね。

その他2つのうち胆は、特殊な場合に感覚できます。絶食して胎内に消化しているものがすべてなくなった時に、初めて感覚できます。身体が胆汁を分泌しているからです。

これはまた、まだ何も食べていない赤ん坊の便を観察しても同じ現象が理解できます。チベットに伝わる古い文献にもこの胆汁らしきものについて解説が加えられており、昔の人は常識的に認識していたようです。

そして東洋医学の専門家でも説明に困って、放棄してしまうこともある三焦が残ります。これは食欲と満腹感と便通がアンバランスになることで感覚します。つまりこれらの働きのバランスをとっている働きがないと説明できないのです。

このことは生産工場での管理システムに似ています。各部品がどれだけあるのか、また製品がどれくらいあるのかを製造工程で管理するのは非効率です。生産管理は通常、各部署の在庫を管理して行います。

つまり生産工程がどのように動いているのかを、各部署の在庫状況を把握することで、理解して管理するようになっているのです。陽経を在庫と考えると、生産管理のやり方に非常に似ています。

そして陰陽に分かれる。元気が動き出すのが東洋医学の本質です

 電車やバスの中で幼い子どもが、じっとしていられなくて動きまわり、おとなしくさせようと苦心している親を見かけたりします。これは教育されるべき子どもの性質として理解されます。

 つまり教育をしない、足りないと子どもは動きまわり、騒ぐものだという理解が私たちにあるのです。この観察はきっと、とても正しいものなのです。

 小学校に上がっても、教師はほんのしばらくの時間でも子どもたちをじっとさせるために大変な苦労をすると聞きます。小学校の教師は大学での勉強時間の多くを、子どものコントロール技術の習得ために必要とするようです。

 休日に遊園地などに連れて行くと、まるで中にゼンマイが入っているかのように動きまわり、そして突然、動かなくなり寝てしまったりしますよね。子どもは動くのです。

 教育によって子どもたちは大人しくなるのでしょうか。決してそういえないことは明らかでしょう。子どもたちを大人しくさせることは極めて困難な作業です。

 それに対して、大人に対して子どものように動きまわることは同じように苦行になりがちだからです。子どもと一緒に動きまわることは大変に体力を消耗します。ほとんど不可能です。

 さらに年齢を重ねていくと、私たちも寝たきりになってしまう危険性があります。一度寝たきりになってしまうと、寝返りすらできなくなるそうです。寝返りができなくなると、3日ぐらいで床ずれが始まります。

 動かないことが身体そのものの死を早めているというと言い過ぎになるでしょうか。確かに死んでしまうと動きません。逆に言えば動かなければ死んでいるのです。

 このように考えると、動くことが生命の本質だとなります。私たちは動こうとして立ち上がり、動こうとして行動範囲を広げ、動こうとして身体を作り上げてきたはずなのです。

 だからといって、動けることが生命のすべてではありません。動ける身体をしていながら、どこにも病的な部分はないにも関わらず、動こうとしない人も困りものです。

 動こうとしないという精神状態を身体の状態から切り離して考えると無理が生じます。むしろ動こうとしない意思が不健全な生命状態だといえます。

 生命は動くのであって、動けるのではありません。生命はそれぞれ実態は異なりますが、動いていると観察できます。植物は私たちには把握できないほどゆっくりと、野生動物は素早く、私たちの目に止まらない動きをします。

それぞれが動きます。ただ違うのは動くスピードだといえます。つまり生命にはそれぞれに固有の時間があって、その時間の流れの中で動いているのだと考えられます。

このように観察して解釈できる生命がどのように世界を成り立たせているのかについて、古代から東洋思想は陰陽で説明しており、東洋医学を理解する基本概念になっています。

すべて始まりは「混元」、あるいは「玄」と呼ばれる状態から始まります。西洋ではカオスといわれる状態から、神の力で秩序を得るのがその流れです。

混元は密度を上げていき、極限まで密度が上がると2つに分かれると考えます。これを「陰陽」と呼んだり、「太極」と呼んだりするわけです。

陰と陽に分かれた状態ですが、陰陽のそれぞれの中に混元として名指せる状態があり、また陰の中に陽の始まりを持ち、陽の中にも陰の始まりを抱え込んでいるのが特徴的です。

陰は陽を求め、陽は陰を求め、互いが対極を求め合うことで、陰陽は運動を始めます。従って陰陽はお互いに区別しながら、お互いを引き合う引力を持っていることになります。

その後、陰陽は「三才」という状態を経て「四象」になり、「五行」の循環を始めて世界を維持するようになるのです。

伝統中国医学の歴史は非科学的な伝説ではなく実証科学でした

 治療の現場で、マッサージ、鍼(はり)灸(きゅう)が治療になる理由を質問しても、よくわからないと結論する専門家も決して少なくありません。一番多い回答は、だって効くからというもの。

 古代中国の唐時代にまとめられた『黄帝内経』(こうていだいけい)という書物を手がかりに理論を編みあげて、こういうものであるという治療を実施しているのが現代では、ほとんどの治療の実態であるように思えます。

 『黄帝内経』は深奥であり、私たちが手にとってもよくわからない難しい内容に満ちています。しかし、原理はわからないはずがないといえるでしょう。なぜなら生きていることが原理だからです。

 生きているということが、応答するという現象で理解できれば、マッサージや鍼灸の原理が共通しているという意見に納得できるはずです。

 私たちの身体は、押されれば押し返します。弾力という力を持っています。弾力がある魚が新鮮だと感じる、あの弾力です。それは単なる反応とか、物理的な反作用ではくくれない概念です。

 外からの刺激に対して、細かにさまざまな応答が身体にあるからです。これについては最近、あれこれとアルタナティブ医療という名前で紹介される機会も出てきました。身体の応答を基本的な原理として利用しようという試みです。

 西洋が、悪くなった身体部位をなんとかして取り除こうと苦心し続けた時代の遥か昔に、中国では身体刺激に対する応答の分類を始めていたといえるでしょう。

 膝小僧を軽く叩けば、足が勝手に動きます。これは反射として知られている反応ですが、このような反射は身体に数多く備わっています。叩く刺激のみではなく、熱という刺激もあり、圧迫に対する刺激もあります。

 これらの刺激に対する身体の応答を治療に用いる技法が東洋医学の治療原理だといえます。このように実際の経験に基いて構築してきた東洋医学は経験医学であるという説明をされたりもします。

 経験から始めて、繰り返し確認し、現象を特定して体系を組み立てる考え方を実証主義と呼びますが、この考え方は科学の立場と同じです。ですから東洋医学は科学的です。

 一般的に科学の立場では、実証的に確認した現象のみに立つべきですが、そこから理論を組み立てなければなりません。現象学などと呼ぶ立場は現代科学を土台で支えている哲学のひとつです。

 同様に東洋医学も現象学のひとつとして、治療の効果事例を積み上げて理論を抽出してまとめ上げたものが、『黄帝内経』です。東洋医学も科学なのです。

 古代の東洋医学が優れていた点は西洋医学にまさるかも知れません。西洋と古代中国とでは人びとの死への取り組み方が異なっていたからです。

 西洋ではやはり死を取り除くことが中心だったようですが、古代中国ではもっと生活の中にまで死が入り込んでいたのではないでしょうか。西洋では人体に構造は人びとから隠されたのに対して、中国ではそうではなかったようです。

 一般の人が人の身体構造を観察することが可能であったろうということが推察できます。特に中国では独特の食文化を古代から保存している文化が知られているように、他のどの文化よりも人間の身体が身近だったと考えられます。このような独特な背景が詳細な人体理解を可能にしたに違いありません。

 『黄帝内経』の内容も用語の統一に問題が見つかったりする理由も同じく民衆の知見を取り入れているからでしょう。つまり、古代中国の医療技術は、さまざまな民衆の理解を総合した医療百科的な書物だったのです。

元気があれば…生きるチカラの元を東洋医学はこう考えます

なんでもできる元気を持ってますか?いつもこのように問いかける台詞と平手打ちで有名なのは元プロレスラーでした。彼は体力が活動の生命線です。つまり元気とは体力を意味します。

しかし、世の中にはそれほど体力に自信がない人も少なくないでしょう。体力がなければ、元気はないのでしょうか。あるいは元気とは健康である状態を言い換えたものだと考えるのがよいのでしょうか。

ここでは元気をもともとの意味で使いたいと思います。元気とは健康に生きるために生まれつき身体に宿っている力です。ですから生きている限り、元気はあるはずです。専門用語では先天気などと呼ぶ場合もあります。

生きる以上、必ず環境も身体も変化します。環境と身体の変化にふさわしく応じれば、健やかな老化が可能だといいます。穏やかな老化によって環境に応じれていれば、快適に日常の活動を続けられます。

未熟な身体は成熟しようとします。一般に成長といわれる過程ですね。成長期に身体と精神は変化し続けますが、成長期が終わった後でもやはり、身体と精神は変化を続けます。変化する状況は変化しませんね。

反対に若いといえども、不快な若さもありえます。年齢が低いにもかかわらず、環境に適応できない身体は不快さを生じます。変化できない身体に問題があるのではないでしょうか。

食事で食べものを元気に取り込むというのも東洋医学の大切な考え方のひとつです。食べたものを消化できない場合、元気にならないですよね。食べたとしても消化して、元気になるのは別の事です。

食べる行為と、消化する行為。そして蓄え、身体の栄養として巡らせて、生命を養う、5つの機能に分けて考えられます。これらの機能を総合して管理しているものが仮定されなければなりません。

重い病気を患うと、意欲が失われて、食欲が消失して、お腹も空かない経験をしました。食欲を抑えて内臓を守ろうとしている意図を感じます。

別の病気では逆に特定のものに対する食欲が異常に亢進するといいます。がん患者の中には甘いものに禁断症状を生じるケースも多いようです。食欲は自らの意思でコントロールしているだけではなく、身体からの信号を受け取って反応しているのでしょう。

生きる力を生み出す元と呼べる自分以外の何かがあるに違いありません。食欲が旺盛ならば、生きる意思が強いように感じられます。生きる意思が強い人は食欲も旺盛です。しかし、食欲も生きる意思も自分でコントロールできるとはいえないものでしょう。

生きる力とは、言い換えれば生命力です。この生命力こそが一般的に言われる元気です。生命力はさまざまな周囲の変化に応じます。私たちが生きれるのは応じる力があるからです。

だからこそ、東洋医学の専門家はバランスという言葉で表現しますが、生命力のもつ身体調整能力が弱ってしまったり、身体そのものに調節を妨げる要因を生じる場合が問題になります。

快適な毎日を維持するためには、環境に応じる快適な変化力が必要だとおわかりでしょう。日本は四季が美しく巡る国だといわれます。四季ごとに暑さ寒さが入れ替わり、取り囲む自然は時期に応じて花を咲かせ、実を付けて変化しますが、私たちの身体も変化しています。

暑くなると身体は熱を放出しやすいように整えられるようになっており、寒くなると身体は熱をムダにしないように整えられるように変化します。この変化が順調に行われないと不調をきたします。

身体が熱を生じる力を失うと、夏の暑いさなかにいても身体が冷えていて不調をきたします。熱を巡らせる力を弱ると食欲を失くして巡らせられる以上の熱を生じないように調整しようとします。


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そうだったのか!西洋医学と比べればわかる東洋医学の身体理解

誰しも健康な日々を送りたい。でも健康ってどういう状態なのかを考えた経験はあるのでしょうか。どこも悪いところがなければ、それで健康といってよいのでしょうか。

病気でなければ健康なのでしょうか。一般に病気とは日常生活を支障なく送れない状態を指します。ですから風邪を引いても日常生活に支障がなければ、登校、出社しなければなりません。このような状態は健康と呼ぶのにふさわしいでしょうか。

それとも人間ドックに入院して検査をします。それで特に目立って標準値から外れた数値がでなければ、健康という判断が許されるのでしょうか。後になって大きな腫瘍が発見されても、検査の時には見つかりませんでしたで済まされます。

このように考えていると、健康とはとても後ろ向きな考え方に思えてきます。病気によって理解しようとするからですね。実は西洋医学では健康を定義できないんです。

西洋医学は身体を多くの部品の集合として捉えます。そして部品ごとに分解して機能を理解します。結果として全ての部品が正しく機能していれば、全体を健全であると判断します。

この考え方には問題がないようですが、全ての部品が正しいかどうかという理解に必然性が約束できません。本当にすべての部品を検査できたのかを確認する方法も基準もありません。

あくまでも人間の身体を内臓などに分解して機能で理解している、枠組みに限界があります。だから身体はどこも悪くないのに、調子がいまひとつなのという事態が生じてしまいます。

それに対して東洋医学はまったく違うアプローチで健康を捉えています。結論すれば、心身ともに快適に日々を過ごせる状態を健康と表現しています。そこにはさまざまな要因が含まれてとても複雑ですね。

食べ物や精神的状態、環境も健康を考えるための要因です。解決できないストレス状態に置かれているなら、東洋医学的には不健康だと判断します。ストレスに反応して身体が作用するはずなのに、適正な反応を身体が示せない病状だと理解するわけです。

このように環境でも、人間と切り離されて存在するのではなく、人間も環境の中で期待される反応がある以上、健康な反応と不健康な反応とがあります。そして身体の反応を判断するのが東洋医学の範囲になります。

東洋古典の世界では、生命の営みを活動として理解します。生命の活動は熱を作り出して、身体中に巡らせて健康を保っていると考えます。そして活動の中心は、お腹だと説明します。

お腹の中心に熱を発生させる中心機関があります。そして熱を伝える経路を伝って全身にエネルギーが運搬されます。余分な熱は体外に放出されて身体中の環境が整えられます。

実はここ最近の医学でも研究が進んできて、生命の維持についてお腹が健康や生命維持にとって本質的な役割を担っている事実が明らかになってきました。

内分泌の問題がさまざまな疾患の原因になりますが、内分泌を司るのは脳ではなく、大半が小腸、大腸である事実が確認され、糖尿病が大腸内の菌フローラの改善によって予防できるなどといわれるようになりました。

生命が胎内に宿った後、最初に形成されるのはお腹に当たる部分になります。脳が精神活動を司っているとする西洋医学の知見は正しいかもしれませんが、生命の全てが大脳の責任であるとするのはもはや時代に遅れているといえます。

お腹が大切なのは生命活動のみではなく、精神活動にさえ大きな影響を及ぼしているという研究結果も提示されているそうです。お腹の具合が悪いと精神活動が脳内で健全に行われず、いらいらや怒りといって不都合な状況を生じます。これも東洋医学では身体の範囲になっています。